のんあるで乾杯
のんあるのシャンパンを買って、一人で飲んでみた。
400円の炭酸水だった。
なにこれ。
入社した時に、次の人生の楽しみは老後だけだと思ってたけれど、もう耐えられそうにないね。
最近は楽しくない毎日から抜け出したくて、
一旦会社を辞めようとしているよ。
でも、自分の快楽を優先させるためだけに、人生が台無しにしようとしている気が。
私の人生に口出しだけして、一切私の人生の責任を取らない親の代わりに、
私は無責任な過去を抱えて歩いてきた。
自立して2年経った頃、
もう過去を呪うことも、過去にとらわれることもできないのだと悟った。
社会に出て、2年もたったのなら、人生を変えるような出来事が起こってもおかしくない。
何も起こらない人生を望んでいないのに、何も起こらないのは自分の責任だ。
私が、どこにでも行けて、なんでも気持ち一つで選べる人間なのに、
老後になるまで何も楽しみがないとか言っていたら、
このまま終わってしまうんだよな。
人生ここで終わっていいのか?
・・・いやに決まってるだろ!!
20代、永遠に戻ってこないんだから、助けてくれ。
どうか勇気を出してください。
未来の自分さん。どうぞ。
覆水不返
先日読んだ『図書館の大魔術師』で面白かったのは
— スドー⛄ (@stdaux) 2021年3月17日
・この世界では混血が差別されていること
・それを示す差別語が存在していること
・それを現実の文脈や歴史を背負った日本語の差別語とつなげる意思はないこと
がコマ外の注一つでスマートに示されていたこと pic.twitter.com/EisIEoHwVk
ここじゃないどこかへ
土手を散歩した。
桜はまだ咲いていませんでしたが、淡い水色の空と、さわやかな風に春が到来したことを感じました。春は何か新しいことを始めたくなりますね。
今日は、この一年間私を制限し続けたコロナについて、自分が思っていたことを書こうと思います。
素人の浅はかな感想に過ぎませんが、お付き合いください。
コロナが始まってからテレワークを推進した企業って、地方だとどのくらいあるのでしょうか?
コロナが始まった昨年の2月ごろから現在に至るまで、一年以上経過したけれど、ニュースではまだ警戒する向きの報道が続いていますね。
しかし、東京に住んでいる筆者の知り合いでコロナに感染した人は一人もいません。
コロナが流行った時から今に至るまで、アナウンサーが深刻そうな顔で「東京の感染者数は300人です」とかいうたびに、(東京の人口がどのくらいかわかっているんだろうか?)と思っていました。
ちなみに、東京の人口は1300万人です。
※別に、実行再生産数の意味が分かっていないわけではないです。300人を少ないと思って対策しなかったら、日本だって欧州の国と同じようなひどい状況になったことはわかります。
さて、医療従事者を中心にワクチンの接種が始まりましたね。
私のような医療従事者でもなく、高齢者でもなく、幼年でもない人間は、最後まで順番が回ってこないだろうな。。
コロナという病気をいろいろな専門家や知識人が語っていると思うのですが、市井の一個人からすると、コロナはずっと「東京の病気」だった気がします。
途中から東京から首都圏を中心に感染が広がったし、関西でも感染は確認されていましたが、やっぱり東京の感染者数が圧倒的だった。
東京の中で感染を抑え込むことができたということではあると思います。エビデンスを精査すればそういう結果になるのかもね。知らんけど。
しかし、コロナという病は私の目の前に姿を現しませんでした。
知人の働いている会社のビルの違うフロアで感染者が出たという話を聞いたり、弊社のビルで感染者が出たという話は聞きました。
でも、それは、ほとんど私たちには関係ない事象でした。
コロナの感染者はどこにいたのでしょう。
夜の街に繰り出す人たちはどんな人なのでしょう。
なんだか、東京という町には薄いシートが幾重にも重なりあい、しかしシート同士は混ざらずにいるのを感じました。
ある特定の生活圏に生きている人たちの病だったのではないだろうか?と思うのです。
特定の生活圏に生きる人たちがたまたま日本の政治に影響力を持つ人たちだから、ニュースは毎日うるさかったのでは。
コロナが日本経済に与えた打撃は大きかったと思いますが、個人というミクロの視点から見ると、自分自身や人生と向き合う機会となった気がします。
この一年はどんな一年でしたか?
もしよかったら、コメントで教えてください。
あやまって
母親と絶縁したのは、
母の誕生日の次の日だった。
意図したわけではなく、ただ私の憎しみが再び爆発したのがその日だっただけだ。
火山の噴火後もしばらくマグマが地中から流れ出るように、私はその日何度もメールを送った。
私は、社会人一年目の2月に、一人暮らしを始めた。
それまでは実家暮らしをしていた。
通っていたメンタルクリニックの先生から、「家を出て、いろんな人と出会った方がいいよ」と言われていたものの、これまで実家暮らしの苦痛に耐えていた私にとって、一人暮らしを始めることは別の面倒さがあった。
しかし、一人暮らしをするきっかけとなったのは「別に、家賃が安いところもあるよ。社会人向けの寮みたいなところに住んだり、シェアハウスに引っ越したりすればいいよ。」とその先生に言われたこと。
そして実家から出るのは、幼いころから私が願っていたことだからだ。
あれほど私を罵倒していた母親は、私が一人暮らしを始めてから、まるでいたわるような、ねぎらうようなメールを寄越すようになった。
敬語を使うようになった。
母親が、「優しい母親」を演じていて腹が立った。
昔から母親は外面が良く、私がいろんな人に相談したり、愚痴を言っても、「でもあなたのお母さんは優しい人だと思うよ」と言われ続けた。
当時の母がどんな気持ちだったのか?
反省していたのか、それとも私にも外面を向けるようになり、実家に戻ったら元の態度に豹変したのかわからない。
メールを読むたびに、少女時代の私が抱える憎しみが頭をもたげた。
昔言われたことがフラッシュバックして何度も泣いた。
さらに2年経っても、私は親の呪縛から逃れられなかった。
だから、「その日」私は宣言した。
私の為に、何もしないでください。
その代わり
・メール電話は寄越さないでください。
・冠婚葬祭には出席しません。呼ばないでください。
・私から金銭の要求があったとしても、応じないでください。
私からの絶縁宣言だ。
その日、母は仕事をしていたらしい。
私の母は、還暦を超えているのに、今でも仕事をしなくちゃいけないのだという。
何の仕事をしているのか知らない。
返信にはこう書かれていた。
今日は仕事で、電源を切ってました。
貴方を傷つける事を言ってごめんなさい。その事で、3年も精神病わずらってしまって、ごめんなさい。
私がもう少し言いかたを考えればよかったのに、私も心の余裕がありませんでした。
お金は返さなくていいです。私もうつ病になりそうです。精神科にかかります。
もう、メールも電話もしません。
人生で、母が初めて謝った。
今まで「あなたの為にアドバイスで言っていただけなのに!!」と、開き直っていた母が。
そうか。私が実家にいる限り、この人は私を人として対等に向き合う気がなかったのだなと思った。
そうか。そうか。
はじめに
人間の悩みなんて、ほとんどが人間関係だ。
それが結論だった。
親子関係、友人関係、職場の人間関係、...etc
メンヘラ.jpを観察し続けて最終的に出した結論がそれだった。
※メンヘラ.jpとは、「メンヘラの居場所」となるように作られたコミュニティーサイトだ。
そのサイトを眺め始めてかれこれ4年経った。
お悩み相談、独り言。人生が苦しい時にいつも眺めていた。
そして、それらに共感しつつ、
「あー、この人たち、いつまでも同じことに悩んでんね」と思うようになった。
精神科の先生の勧めで一人暮らしを始めたものの、人生は一行に進まなかった。親は目の前から消えたけれど、相変わらずメールや電話はかかってくる。
そういった履歴をうっかり見てしまうたびに、昔の記憶が鮮やかによみがえり、憎しみが頭をもたげる。
しかし、そんなことに感情を動かす時間的な余裕が存在していないことに気が付いた。
自分の人生を前に進めたかったが、人生がうまくいかなくなるたびに、「私がこうなったのは、親のせいだ」と思わずにはいられなかった。
実家で暮らしていた時期ならまだしも、一人暮らしを始めてから2年は立っている。
もう、いい加減親の呪縛から自由になりたかった。
そうやって自由になった結果、私は今仕事をやめようとしている。
親への反抗の意志を込めて入ったIT企業。
その会社の内定を連絡したら、母に言われた言葉
「NTTとかも受けたらどう?」
どうしても、大企業に勤める娘が欲しかったらしい。
ずっとそうだった。
・幼稚園から私立へ通う娘
・中高一貫校へ通う娘
私はことごとく落ちた。
別に強い気持ちをもって臨むことはなかったが、「なんとなく」で受かる人もいるだろうから、私には素質がなかったのだろう。
しかし、IT企業にも素質はなかった。
というか、社会人の素質がないんだけど笑
だから、会社をやんることにしたが、すぐにやめるのはちょっと怖い。
ボーナスをもらってから辞めることにした。
親に言われて傷ついた言葉はたくさんあるが、「お前は発達障害だ」という言葉はかなりたくさん言われた。
大喧嘩した日には、「今からお前を病院へ連れていく!!」と怒鳴られた。
私が激しく抵抗したためか、世間体が悪いからなのか、病院に連れて行ってもらうことはなかった。
だけど、仕事を始めて早3年。しみじみと自分は発達障害かもしれないと、認めつつあった。
会社にも迷惑だし、私自身もモチベーションがわかない。しかし、無収入になる前に、できるだけお金が欲しい。(特にボーナス)
となると、6月まで働いてなきゃならない。
もちろん、それまで働き続けることなく辞める可能性はある。
会社を辞めるまで、ここに日記をつけることにする。