のんあるで乾杯

 

 

のんあるのシャンパンを買って、一人で飲んでみた。

400円の炭酸水だった。

 

なにこれ。

 

入社した時に、次の人生の楽しみは老後だけだと思ってたけれど、もう耐えられそうにないね。

 

最近は楽しくない毎日から抜け出したくて、

一旦会社を辞めようとしているよ。

 

でも、自分の快楽を優先させるためだけに、人生が台無しにしようとしている気が。

 

私の人生に口出しだけして、一切私の人生の責任を取らない親の代わりに、

私は無責任な過去を抱えて歩いてきた。

 

自立して2年経った頃、

もう過去を呪うことも、過去にとらわれることもできないのだと悟った。

 

社会に出て、2年もたったのなら、人生を変えるような出来事が起こってもおかしくない。

 

何も起こらない人生を望んでいないのに、何も起こらないのは自分の責任だ。

 

私が、どこにでも行けて、なんでも気持ち一つで選べる人間なのに、

老後になるまで何も楽しみがないとか言っていたら、

このまま終わってしまうんだよな。

 

人生ここで終わっていいのか?

 

・・・いやに決まってるだろ!!

20代、永遠に戻ってこないんだから、助けてくれ。

どうか勇気を出してください。

未来の自分さん。どうぞ。

覆水不返

今日は図書館の魔術師を読んだ。
 
きっかけは、スドーさんのこのツイート
 

 
去年の10月くらいから節約生活を送っていて、月の生活費を15万円に抑えようと頑張っている。
今まで、一回も目標を達成したことはなく、大体いつも18万円前後に着地するけれど。
 
今月は多少頑張ったので、たぶん17万円くらいだろう。
 
半年実践してみて、生活費を15万円に抑えるには、毎日食事を自炊しないと達成できないことがわかった……。
 
でも、15万円以内で生活しよう!という気持ちでいると無駄遣いが減るから、目標金額は据え置いている。
 
だから、本当は漫画を衝動買いする余裕なんてないんだけれど、買った。
 
そして泣いた。
 
 
私はもともと本が好きな子だった。
本が好きだったけれど、周りに本を読んでいる子が誰もいなくて、先生にはいつも孤立していると思われていた。
私は本を読むのが好きなだけで、頭が良いわけではなかったので、中学生くらいまで「この世界に出版されている本をすべて読むこと」が夢だった。
一人で学校生活を送るのは無理だったので、友達を作るために、スマホのゲームをやったりニコニコ動画を見ているうちに、本を読まなくなった。
本を読まなくなったし、勉強もしなくなった。
いつも親に、推理小説を読んでいるだけなのに「気持ち悪い本を読んでいる」とか「脳みそが腐っている」とか言われ続けたし、勉強頑張っている子が周りに一人もいなかったのが大きい。
あんまり人のせいにしたくないのだけれど、周りの人間に合わせないで生きるべきだったと思う。
そうやって合わせているうちに、スマホゲームとか搾取の構造が出来上がっているコンテンツに搾り取られるようになったから。
現実逃避して依存した。
 
そうこうしているうちに、軽度鬱になり、私は文章が読めなくなっていた。(※軽度鬱の診断をもらったわけではなかったんだけど。というか診断名は教えてもらえなかった)
 
大学を卒業し、会社に入った。当時は有効求人倍率がそれなりに低かったので、内定を割とあっさりともらうことができた。
お金をためて実家を出たら、急に何かを読みたくなって、本を買うようになった。
どれもこれも全く頭に入らなかった。そんなことあるのかよと思ったが、しかし自分の頭がものすごく鈍くなっていることには気が付いていた。
1行読んで、次の行に移ったら、前の行を忘れるほどだとは思わなかったけれど。
 
だからか、図書館の魔術師の主人公・シオが本を愛する様を見ると、なんだか泣けてきてしまった。
 
あの物語は、本が好きな少年が司書(作中では'カフナ'と呼ばれている)を目指す話だったんだけれど、昔の自分が本でわくわくしていた時の気持ちだけを思い出し、喪失したことがわかり泣いた。
 
ものすごくメンタルを病んでいた時、何もできず、何もせず、無気力な人間の物語ってないんだろうか?とか考えていたことがある。推進力を失った人間の物語でないと共感できなかったから。
 
しかし、あれですね。
母親に将来の暗黒予想図を毎日聞かされて育ってたから、「もうだめなんだな」と思い込んでいただけで、別に私は縛られていなかったのだなと思うのです。
高校卒業したら、きっぱり家を出てしまえばよかった。
そうして社会に出てから、改めて大学受験をすれば、自分で選択することができたのに。
あるいは、大学に入らないことも選択できたでしょう。
 
そう思うけど、「保証人」という悪の制度があるので、やはり厳しかったかな……。
 
自分のメンタルを治すためにメンタルクリニックを転々としていたけれど、「一人暮らしをする」「バランスよく毎日食べる」「一日の生活リズムを大きく変えない」ことが一番メンタルに効いた。
 
そして、鬱に差し掛かっていた高校生のころからこうしていればよかったと、後悔しているのです。
もっと勉強したかったとはあまり思わない。
勉強する以前に、精神的な健康が大事だし。
勉強していない日々を過ごしていた時、「将来勉強しなかったことを後悔するのかもな~」と思っていたけれど、あんまり後悔していない。もっと教科書を読みこんでおけばよかったとは思うけれど。
 
知らぬ間に、高校生も10年前の出来事になった。
私を「こんな風に」した人間に対して、許さねぇ、という気持ちもあるけれど、当時のことを引きずって何も変わらないままでいるのではなく、自由を謳歌したいなと思う。
 
そして、もっと早くそうしていればよかったな~と、また後悔するのでした。

ここじゃないどこかへ

 土手を散歩した。

桜はまだ咲いていませんでしたが、淡い水色の空と、さわやかな風に春が到来したことを感じました。春は何か新しいことを始めたくなりますね。

 

今日は、この一年間私を制限し続けたコロナについて、自分が思っていたことを書こうと思います。

素人の浅はかな感想に過ぎませんが、お付き合いください。

 

コロナが始まってからテレワークを推進した企業って、地方だとどのくらいあるのでしょうか?

コロナが始まった昨年の2月ごろから現在に至るまで、一年以上経過したけれど、ニュースではまだ警戒する向きの報道が続いていますね。

しかし、東京に住んでいる筆者の知り合いでコロナに感染した人は一人もいません。

コロナが流行った時から今に至るまで、アナウンサーが深刻そうな顔で「東京の感染者数は300人です」とかいうたびに、(東京の人口がどのくらいかわかっているんだろうか?)と思っていました。

 

ちなみに、東京の人口は1300万人です。

※別に、実行再生産数の意味が分かっていないわけではないです。300人を少ないと思って対策しなかったら、日本だって欧州の国と同じようなひどい状況になったことはわかります。

 

さて、医療従事者を中心にワクチンの接種が始まりましたね。

私のような医療従事者でもなく、高齢者でもなく、幼年でもない人間は、最後まで順番が回ってこないだろうな。。

 

コロナという病気をいろいろな専門家や知識人が語っていると思うのですが、市井の一個人からすると、コロナはずっと「東京の病気」だった気がします。

 

途中から東京から首都圏を中心に感染が広がったし、関西でも感染は確認されていましたが、やっぱり東京の感染者数が圧倒的だった。

 

東京の中で感染を抑え込むことができたということではあると思います。エビデンスを精査すればそういう結果になるのかもね。知らんけど。

 

しかし、コロナという病は私の目の前に姿を現しませんでした。

知人の働いている会社のビルの違うフロアで感染者が出たという話を聞いたり、弊社のビルで感染者が出たという話は聞きました。

でも、それは、ほとんど私たちには関係ない事象でした。

 

コロナの感染者はどこにいたのでしょう。

夜の街に繰り出す人たちはどんな人なのでしょう。

なんだか、東京という町には薄いシートが幾重にも重なりあい、しかしシート同士は混ざらずにいるのを感じました。

ある特定の生活圏に生きている人たちの病だったのではないだろうか?と思うのです。

 

特定の生活圏に生きる人たちがたまたま日本の政治に影響力を持つ人たちだから、ニュースは毎日うるさかったのでは。

 

コロナが日本経済に与えた打撃は大きかったと思いますが、個人というミクロの視点から見ると、自分自身や人生と向き合う機会となった気がします。

 

この一年はどんな一年でしたか?

 

もしよかったら、コメントで教えてください。

あやまって

母親と絶縁したのは、

母の誕生日の次の日だった。

 

意図したわけではなく、ただ私の憎しみが再び爆発したのがその日だっただけだ。

火山の噴火後もしばらくマグマが地中から流れ出るように、私はその日何度もメールを送った。

 

私は、社会人一年目の2月に、一人暮らしを始めた。

それまでは実家暮らしをしていた。

通っていたメンタルクリニックの先生から、「家を出て、いろんな人と出会った方がいいよ」と言われていたものの、これまで実家暮らしの苦痛に耐えていた私にとって、一人暮らしを始めることは別の面倒さがあった。

 

しかし、一人暮らしをするきっかけとなったのは「別に、家賃が安いところもあるよ。社会人向けの寮みたいなところに住んだり、シェアハウスに引っ越したりすればいいよ。」とその先生に言われたこと。

そして実家から出るのは、幼いころから私が願っていたことだからだ。

 

 

あれほど私を罵倒していた母親は、私が一人暮らしを始めてから、まるでいたわるような、ねぎらうようなメールを寄越すようになった。

敬語を使うようになった。

母親が、「優しい母親」を演じていて腹が立った。

昔から母親は外面が良く、私がいろんな人に相談したり、愚痴を言っても、「でもあなたのお母さんは優しい人だと思うよ」と言われ続けた。

 

当時の母がどんな気持ちだったのか?

反省していたのか、それとも私にも外面を向けるようになり、実家に戻ったら元の態度に豹変したのかわからない。

 

メールを読むたびに、少女時代の私が抱える憎しみが頭をもたげた。

昔言われたことがフラッシュバックして何度も泣いた。

 

さらに2年経っても、私は親の呪縛から逃れられなかった。

 

だから、「その日」私は宣言した。

 

私の為に、何もしないでください。

その代わり

・メール電話は寄越さないでください。

・冠婚葬祭には出席しません。呼ばないでください。

・私から金銭の要求があったとしても、応じないでください。

 

私からの絶縁宣言だ。

 

その日、母は仕事をしていたらしい。

私の母は、還暦を超えているのに、今でも仕事をしなくちゃいけないのだという。

何の仕事をしているのか知らない。

 

返信にはこう書かれていた。

今日は仕事で、電源を切ってました。
貴方を傷つける事を言ってごめんなさい。その事で、3年も精神病わずらってしまって、ごめんなさい。
私がもう少し言いかたを考えればよかったのに、私も心の余裕がありませんでした。
お金は返さなくていいです。私もうつ病になりそうです。精神科にかかります。
もう、メールも電話もしません。🐻

 

人生で、母が初めて謝った。

今まで「あなたの為にアドバイスで言っていただけなのに!!」と、開き直っていた母が。

 

そうか。私が実家にいる限り、この人は私を人として対等に向き合う気がなかったのだなと思った。

そうか。そうか。

はじめに

人間の悩みなんて、ほとんどが人間関係だ。

それが結論だった。

親子関係、友人関係、職場の人間関係、...etc

 

メンヘラ.jpを観察し続けて最終的に出した結論がそれだった。

 

※メンヘラ.jpとは、「メンヘラの居場所」となるように作られたコミュニティーサイトだ。

 

そのサイトを眺め始めてかれこれ4年経った。

お悩み相談、独り言。人生が苦しい時にいつも眺めていた。

そして、それらに共感しつつ、

「あー、この人たち、いつまでも同じことに悩んでんね」と思うようになった。

 

精神科の先生の勧めで一人暮らしを始めたものの、人生は一行に進まなかった。親は目の前から消えたけれど、相変わらずメールや電話はかかってくる。

そういった履歴をうっかり見てしまうたびに、昔の記憶が鮮やかによみがえり、憎しみが頭をもたげる。

 

しかし、そんなことに感情を動かす時間的な余裕が存在していないことに気が付いた。

 

自分の人生を前に進めたかったが、人生がうまくいかなくなるたびに、「私がこうなったのは、親のせいだ」と思わずにはいられなかった。

 

実家で暮らしていた時期ならまだしも、一人暮らしを始めてから2年は立っている。

もう、いい加減親の呪縛から自由になりたかった。

そうやって自由になった結果、私は今仕事をやめようとしている。

親への反抗の意志を込めて入ったIT企業。

その会社の内定を連絡したら、母に言われた言葉

「NTTとかも受けたらどう?」

どうしても、大企業に勤める娘が欲しかったらしい。

ずっとそうだった。

・幼稚園から私立へ通う娘

中高一貫校へ通う娘

 

私はことごとく落ちた。

別に強い気持ちをもって臨むことはなかったが、「なんとなく」で受かる人もいるだろうから、私には素質がなかったのだろう。

 

しかし、IT企業にも素質はなかった。

というか、社会人の素質がないんだけど笑

 

だから、会社をやんることにしたが、すぐにやめるのはちょっと怖い。

 

ボーナスをもらってから辞めることにした。

 

親に言われて傷ついた言葉はたくさんあるが、「お前は発達障害だ」という言葉はかなりたくさん言われた。

大喧嘩した日には、「今からお前を病院へ連れていく!!」と怒鳴られた。

 

私が激しく抵抗したためか、世間体が悪いからなのか、病院に連れて行ってもらうことはなかった。

 

だけど、仕事を始めて早3年。しみじみと自分は発達障害かもしれないと、認めつつあった。

 

会社にも迷惑だし、私自身もモチベーションがわかない。しかし、無収入になる前に、できるだけお金が欲しい。(特にボーナス)

となると、6月まで働いてなきゃならない。

 

もちろん、それまで働き続けることなく辞める可能性はある。

会社を辞めるまで、ここに日記をつけることにする。